2026年3月、日本の政界に衝撃が走った。元参議院議員で、旧民主党・民進党・国民民主党で要職を歴任した大塚耕平氏が、3月2日に心不全のため亡くなった。享年66歳。事務所が4日に発表した訃報は、多くの政治関係者や支援者を驚かせ、追悼の声が相次いだ。
大塚氏はかねてより病気療養中だった。2025年以降、体調を崩し、最近の衆議院選挙では国民民主党から愛知6区での出馬を検討されていたものの、体調不良を理由に辞退していた。突然の死去は、長期にわたる闘病の末のものだったとみられる。

早稲田大学から日本銀行へ 経済のプロフェッショナルとしての出発点
大塚耕平氏は1959年10月5日、愛知県名古屋市に生まれた。名古屋市立田代小学校、城山中学校、愛知県立旭丘高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業。学生時代から経済学に強い関心を持ち、在学中からバレーボール部にも所属するなど、活発な学生生活を送った。
大学卒業後、1982年に日本銀行に入行。金融政策や経済分析の現場で18年間勤務した。この期間に早稲田大学大学院で博士課程を修了し、経済学の博士号を取得。専門はマクロ経済政策で、著書『公共政策としてのマクロ経済政策』(成文堂)など、学術的な貢献も残している。
日本銀行時代は、バブル崩壊後の金融危機やゼロ金利政策の萌芽期にあたる。現場で経済のダイナミズムを肌で感じた経験が、後の政治活動の基盤となった。
2001年、民主党から参議院初当選 政界への転身
2000年に日本銀行を退職し、翌2001年の参議院選挙に旧民主党から愛知選挙区で立候補。初当選を果たした。以降、2007年、2013年、2019年と連続当選し、計4期23年余りにわたり参議院議員を務めた。
民主党政権下では、鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣で内閣府副大臣、菅直人第2次改造内閣で厚生労働副大臣を歴任。社会保障や経済政策の現場で手腕を発揮した。特に厚生労働分野では、年金・医療制度改革に深く関与。現場主義を貫き、官僚との調整役としても評価された。
野党再編の荒波を渡り歩く 民進党代表から国民民主党へ
2016年の民進党結党時には、参議院政策審議会長に就任。2017年には民進党代表に選出され、党の顔として野党再編を主導した。しかし、希望の党への合流騒動などで党は分裂。大塚氏は玉木雄一郎氏らとともに国民民主党を結成し、共同代表、代表代行、政務調査会長、参議院議員会長などを歴任した。
国民民主党では、中道・現実路線を重視。消費税増税凍結や積極財政を主張し、与野党の橋渡し役としても活動した。拉致問題特別委員長や国家基本政策委員長としても、北朝鮮問題や憲法改正議論に積極的に取り組んだ。
名古屋市長選への挑戦と落選 議員辞職後の新天地
2024年11月、大塚氏は4期目の任期途中で参議院議員を辞職。無所属で名古屋市長選挙に立候補した。現職の広沢一郎氏(当時)との一騎打ちとなったが、惜しくも落選。選挙戦では、地元経済の活性化や子育て支援を訴えたが、組織力の差が響いた。
落選後、大塚氏は藤田医科大学で特命教授に就任。学生指導や講義に携わり、経済学や公共政策の知見を次世代に伝える活動を続けた。また、2025年からは名古屋大学(東海国立大学機構)の客員教授も務め、学術と実務の橋渡しを志向していた。
死因「心不全」の背景 闘病生活と最期
公式発表によると、死因は心不全。病気療養中だったため、心臓の機能低下が進行したものとみられる。一部では長期疾患の可能性も指摘されるが、詳細は近親者により伏せられている。
66歳という年齢は、政治家としてまだまだ現役で活躍できる時期だった。直近までメディア出演や講演をこなしていただけに、関係者からは「早すぎる」「突然の訃報」との声が上がっている。
国民民主党の玉木雄一郎代表は、追悼の意をSNSで表明。「かけがえのない戦友」「野党再編の荒波を共に乗り越えた」と振り返り、「一緒に悩み、もがき続けた毎日が楽しかった」とつづった。多くの政治家からも哀悼の声が寄せられ、政界全体が喪に服した。
大塚耕平氏が残したもの 中道政治の継承と教訓
大塚氏は、経済の専門家として現実的な政策を重視した政治家だった。イデオロギー対立を超え、データに基づく議論を好んだ。仏教研究家としても知られ、著書『仏教通史』や『愛知四国霊場の旅』などで、精神性と社会のつながりを探求。歴史や文化への造詣も深く、多面的な人物だった。
愛知県バレーボール協会会長としても地域スポーツ振興に貢献。家族は妻・真理子さんと一男一女。葬儀は近親者のみで静かに営まれた。
大塚耕平氏の死は、日本の政治に一つの時代が終わりを告げたことを意味する。中道勢力の再編や経済政策の議論において、彼の視点は今後も参照され続けるだろう。ご冥福をお祈りするとともに、その志を継ぐ者たちの活躍を期待したい。