2026年3月2日、日本の政界に衝撃が走った。元参議院議員で、旧民主党・民進党・国民民主党の要職を歴任した大塚耕平氏が、心不全のため亡くなった。享年66歳。事務所が3月4日に公表した訃報は、政界関係者や支援者から深い悲しみの声を呼び起こしている。葬儀は故人の意向を尊重し、近親者のみで静かに執り行われた。
大塚氏は1959年10月5日、愛知県名古屋市に生まれた。早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同大学院社会科学研究科博士後期課程を修了。経済学者としての基盤を築いた後、日本銀行に入行した。日銀では主に調査・企画部門で活躍し、国会対応なども担当。金融・経済政策の現場経験が、後の政治活動の大きな強みとなった。
2001年、参議院選挙で愛知選挙区から旧民主党公認で立候補し、初当選を果たした。以降、4期にわたり参議院議員を務め、民主党政権下では内閣府副大臣、厚生労働副大臣を歴任。社会保障や経済政策の分野で理論的な議論をリードした。特に年金・医療制度改革や財政再建に関する提言は、党内外から高く評価された。
2016年の民進党結党時には党の理論派として活躍。2017年には民進党代表に就任し、野党再編の渦中で党の方向性を模索した。しかし、同年の希望の党結党騒動で民進党は分裂。大塚氏は玉木雄一郎氏らとともに国民民主党の結党に参加した。国民民主党では代表代行や政調会長を務め、中道・現実路線を堅持。消費税減税や社会保障の持続可能性を重視した政策立案に尽力した。

2022年の参院選後、国民民主党の共同代表(代表代行)として党運営を支えた。大塚氏の存在は、党の「理論的支柱」として欠かせないものだった。経済学者出身らしい緻密なデータ分析と、現場感覚を兼ね備えた発言は、党の政策議論を深めた。
2024年11月、大塚氏は4期目の参議院議員在職中ながら議員辞職を決断。地元・名古屋市長選挙に無所属で立候補した。現職の広沢一郎氏(当時)との一騎打ちとなったが、惜しくも落選。選挙戦では「名古屋の再生と持続可能な都市づくり」を訴え、経済活性化や子育て支援策を具体的に提示した。落選後も政治への情熱を失わず、藤田医科大学教授や名古屋大学客員教授として後進の指導に当たっていた。
しかし、近年は体調を崩しがちだった。2026年2月の衆議院選挙では、国民民主党愛知県連が愛知6区からの擁立を検討したが、体調不良を理由に本人が固辞。病状が深刻化していたことがうかがえる。3月2日、名古屋市内の病院で心不全により永眠した。
大塚氏の死去を受け、政界からは追悼の声が相次いだ。国民民主党の玉木雄一郎代表は「かけがえのない戦友であり、尊敬する先輩だった」と悼み、古川元久代表代行は涙ながらに「大塚さんが残してくれたものを守り、党を大きくする」と決意を語った。愛知県の大村秀章知事も「同じ愛知出身で同学年。こんなに早くお別れの日が来るとは」と深い悲しみを表明した。
大塚耕平氏の政治人生は、野党再編の激動期を象徴するものだった。民主党から民進党、国民民主党へと移り変わる中で、一貫して「現実的な改革」を追求。イデオロギー対立を超えた政策議論を重視した姿勢は、今の政界に欠けているものの一つかもしれない。
特に国民民主党の礎を築いた功績は大きい。党の綱領や政策の多くに、大塚氏の経済・社会保障に関する知見が反映されている。理論派でありながら、地元愛知への思いが強く、名古屋市長選出馬はその象徴だった。落選は残念だったが、挑戦そのものが多くの有権者に「中道政治」の可能性を示した。
晩年は大学教壇に立ち、若手研究者や学生に経済政策や政治のあり方を伝えた。趣味の仏教や歴史、ダイビングを通じて得た視野の広さも、彼の人柄を物語る。穏やかで誠実、時に厳しい論客だった大塚氏の突然の逝去は、あまりにも早すぎる。
66年の生涯で、国政に残した足跡は大きい。心不全という突然の死に直面し、多くの人が「もっと活躍してほしかった」と惜しむ声が広がっている。政治とは何か、国民のために何をすべきか――大塚耕平氏が問い続けたテーマは、これからも日本の政治に生き続けるだろう。
ご冥福をお祈り申し上げます。